第23回「民主主義と教育と新聞-NIE活動10年」が日本新聞協会『新聞研究』(1995年12月号)に所収
日本新聞協会が1985年にNIEを提唱してから、1995年は丁度10年になります。日本新聞協会編集『新聞研究』(1995年12月号)では特集として「民主主義と新聞―NIE活動10年」を掲載しました。6名の方が執筆されています。
この特集の意図が編集後記にありましたので、最初にご紹介致します。
「『民主主義』というキーワードを編集部が使わずに依頼してきたら、たぶん書かなかったよ」―今回原稿をお願いした朝日の山岸氏からこんな言葉を頂きました。新聞協会が「教育に新聞を(NIE)」運動に取り組んで、今年でちょうど10年。単に協会NIE活動10年を回顧するではなく、新聞にとってNIEが持つ意味を改めて考える特集にしたい、というのが編集部の願いでした。現実にNIEを実践されている方からは「抽象的」に感じられる特集タイトルかも知れないとの不安は正直あったのですが、巻頭、山岸氏は1958年に刊行された『新聞と教育』を引きつつ、みごとに民主主義と教育と新聞を結んで下さいました。同氏論文に限らず、今回特集のどの論考でもご一読いただければ、NIEが教育技術の話でも、新聞部数維持の方策の話でもないことを再確認して頂けるものと思います。本号では、また、10月、高知で開かれた「第48回新聞大会」の研究座談会第一部の模様を抄録しました。「古兵(ふるつわもの)になってほしい」「リスクを負う覚悟を」などの言葉が胸に残ります。こうした「志」を新聞人が忘れれば、NIEの理念もまさに空文としてしまうのでしょう。」
当時6人の方の原稿を熟読させて頂きました。そして、最後の部分はどう書かれているのか自分が原稿を書く時の参考にしようとした記憶があります。そこで、6人の方のタイトルが付いている最初の1~2頁の写真での紹介と最後の文章を引用致します。メディア界と教育界からのとても興味深い提言でした。
NIEは私たちの社会を根底から変える
朝日新聞東京本社 編集委員 山岸駿介氏
教育の矛盾突くNIE報道を
よく教師たちから教室でのNIEの実践を報道して欲しいといわれる。それがNIEを世間に広め、困難な中で実践を続ける教師たちを励ますことになるという。
たしかにそれは大切なことだが、それだけではNIEの報道は入り口報道の段階を一歩も出られない。NIE報道はそろそろNIEをとっかかりというか、案内役にして入り口から中に入り、新聞が教室でどう使われているかという授業技術の問題だけでなく、子どもや教師にまつわりついているさまざまな問題、学校をしばる目に見えないシステム、ふだんは外から見えない行財政がもたらす問題などを探り、世間に伝える時期に来ている。
これなしに入り口報道だけを繰り返していても、なぜNIEが困難な問題を抱えているのか、教師たちが何に悩み、学校がどんな制約に苦しんでいるのか分からない。それではNIEが教育を変えるといくらいっても、うそっぽい。NIEに対する世間の認識を深めることはむずかろう。
編集がこの仕事に取り組むことで、教育の全ぼうとその中での新聞の姿が見え、NIEの前に立ちはだかる壁、教育の背後に隠されている矛盾が分かる。それはまた教育現象を追うことに追われてきた、これまでの教育取材の質的転換さえ捉えさせるかもしれない。
NIEで教育が変わるなら、新聞もまたNIEで変わらなければならない。新聞が変われるかどうか、それはNIEに取り組む記者が、どこまでNIEの可能性を信じ、教育に熱い情熱を注げるか。この一点にかかっている。片手間でできる仕事ではない。
専門家が納得し小学生でも分かる紙面
東京新聞 編集局次長兼編集企画室長 西尾嘉門氏
NIEの基本理念を明確に
戦後、日本は「デモクラシー(民主政治)」を手に入れました。この政治形態にとって実現しようとする理想・理念は「自由と平等」だと思います。情緒的な「民主主義」という言葉を私は避けています。
「民主政治を守り、自由と平等の大切さを教え、健全な批判精神を育てる」これが、私の考えるNIE運動の理念です。教科書との比較であげた新聞の多様な独自性こそ、この理念を実現するにふさわしいメディアであることを示しています。
最後に教科書と新聞の最も大きな違い、「国家検定の有無」にふれます。新聞を教材とすることに、国や自治体が消極的なのは、「検定なし」が原因ではないでしょうか。新聞の「批判精神」に対する警戒があるかもしれません。
新聞はその壁を乗り越えて、堂々とNIE運動を進めなければなりません。運動の拡大を優先して、報道の自由、批判精神自主規制した「学校向けの無難な新聞」を作ることは新聞の自殺行為です。「学校向けの内容」ではなく、「一般社会向けの内容」を子供でも分かるように表現する。紙面作りのこの原則は、NIE運動の理念を反映したものなのです。
検定に代わる新聞の自主規制は「品位」です。低俗な記事、写真、広告を載せて、NIE拒否の口実とされないことです。新聞紙面は「硬」から「軟」へ向かいつつありますが、低俗化だけは避けなければなりません。
こどもに「ニュース」を伝えるわけ
日本放送協会 「週刊こどもニュース」担当ディレクター 渡辺 昭氏
ニュースがわからない理由
たしかに一日に出てくるニュースの量は膨大になった。しかし、個々の内容が社会の中でどういう意味を持つのかまでは、時々刻々変化するニュースのたびに触れている余裕はない。しかも、一つのニュースにもさまざまな事象が複雑にからみあっているケースが多い。
大人ならば、ある程度自分で関心を持っているニュースについて、いろいろなメディアを通した情報をもとにその意味づけはできるだろう。
こどもたちはその行動範囲が狭いだけに、ニュースがどんな意味を持っているかまではなかなか自分で判断しきれないのではないだろうか。
「こどもニュース」ではニュースの内容や意味が多少乱暴でも、こどもなりに“面白く”わかりさえすればいい、と考えている。
この番組は、世の中には自分たちの社会とは別に、いろいろな人が生きている広い世界があることを、大人のニュースを一つの具体例としてこどもたちに見せる“窓”ともいえる。「こどもニュース」が大人世界への入り口となり、その世界の広がりや複雑さ、なにやらヘンテコリンなオトナのリクツの珍妙さとその“面白さ”に対する好奇心の芽が少しでも子どもたちの中に生れてくれたら、と願っている。
新聞「丸ごと活用」の勧め
日本新聞協会 NIE第一専門部会前部会長 読売新聞社 前編集委員 河村好市氏
紙面案内などの配慮を
本稿をむすぶに当たって大事なことを指摘したい。それはNIE向けに紙面を編集して欲しいということ。しきりと登場する術語、用語の説明をあきることなく実行すること、一面と各面に関連記事が掲載される国内、海外の主な出来事、事件にからむ報道では、どんな記事がどのページに載っているか、ページごとに2~3行の説明がついた案内コーナーを掲載すること。こんな配慮の利いた紙面案内が登場するとNIE担当の先生は新聞に飛びつくにちがいない。
メディア接触の現状とNIEの可能性
明治大学 教授 小池保夫氏
NIEは批判精神を育てる
新聞の報道内容を無批判に受け入れるよう押し付けるべきでないことを言うまでもない。NIEの実践によって、子どもたちに新聞がより身近になれば、新聞への親しみも深まるが、同時に、そのアラも見えてくる。子どもたちの新聞に対する批判も生まれる。批判に耐えられる報道姿勢が求められる。新聞によって、読者は社会に対して目を開くことになり、新聞にも厳しい目を向けることになろう。
NIEによる教育は、やみくもな活字信仰を打ち破ることを進めることをも意味する。より成熟した民主主義社会の到来のために、新聞の果たす役割は、自ら批判の対象になることである。読者の質が高まることは、新聞自身の質も向上することである。両者の相互作用が、互いに刺激を与え合うことが、民主主義社会における新聞と読者の関係と言えないだろうか。
蛇足ながら、より徹底したNIEの実践は、学校も、教師も同様に批判の対象となることを意味する。社会に関心を持ち、自分自身の目でとらえる若い読者が誕生することは、教育それ自身への批判も生むからである。NIEは、新聞界サイドの問題というよりも、教育サイドからのニーズに新聞界がどう対応するかという姿勢が原点とも考えられる。
既に、多くの関係者が指摘するように、これまでのわが国のNIEの動きをみると、次代の新聞読者を確保するという認識から質的変容を遂げて、子どもたちの社会的情報摂取能力の向上へと力点が移行している。
NIEの発祥の地であり、この面での先進国であるアメリカの歴史をみると、NIEはNIC(Newspaper in Classroom=教室に新聞を)から発展したことが分かる。さらに現在では米国新聞協会も家庭を視座に入れたNIEを考えるようになっている。
教育は学校だけに限らない。子どもたちの教育が、ややもすると学校に過度に依存しがちであるが、教育の基礎は家庭に置かれなければならない。これからのNIEにも、学校教育にとどまらず、家庭における展開も期待したい。とりわけ、若年層の社会的な思想の形成は本来、親や家庭の仕事であるべきで、学校や教師への依存は、責任の転嫁であるとも言える。
NIEが将来の新聞読者の確保を求めるという段階から、次の段階に進んでいることは好ましいことである。さらには、子どもたちの真の成長を願う社会教育・学校教育・家庭教育の一環としてのNIEでなければならないと信じている。
未来に希望を与えるのも新聞の使命
奈良教育大学 助教授 岩本廣美氏
新聞界の“イチロー”出現を待望する
NIEの目的は何か。それは明快である。小学生であれば、新聞に親しみ、新聞自体を好きになることである。新聞に対する関心を高め、新聞を活用しようとする意欲・態度を育てると言っても、新聞が子どもたちにとって遠くて興味のない存在であっては全く意味がない。しかし、日本の新聞が子どもにとってより親しみやすいもになっていくためには、現場教師の努力は当然として、新聞自体がこう変わってくれればと思うようなことがいくつかある。それは、新聞の編集方針にかかわることであり、また、第一線の記者の方々にも考えていただきたいことである。
まず、記事には、未来に希望の持てる内容を増やして欲しいということである。もちろん、新聞の使命として、民主主義社会を育てていくために、不正を追及することや、権力の横暴と闘っていくことは大切である。事実を正確に報道していくことも鉄則であろう。最近の記事で言えば、いわゆる官官接待の追及や、核兵器の実験に対する反対表明は当然であろう。
しかし、もし新聞を読んだ子どもが、将来に不安を感じるようなことがあっては、新聞は使命を達せいしたことにはならない。もし、新聞の紙面が、子どもの不安をあおるような記事ばかりで占められれば、子どもの人間形成にとってマイナスである。したがって、子どもが読んで明るい気持ちになったり、あこがれを持つような記事を増やして欲しいと思う。悪い人間について詳しく書くよりは、不正と闘っている勇気ある人物を賛嘆するような記事を、日の当たる人よりは、陰で黙々と社会に貢献する人々に注目する記事をより多く書いてほしいと思っている。
もう一つ、新聞に関して日ごろからやや残念に思っていることは、特集的なものや、囲み記事等は別として、記事を書いた記者名が書かれない場合が多い点である。ペンネームでもよいから、記者名が書かれていれば、子どもと記者の間で直接“やりとり”できると思うからである。子どもが記事を読んで疑問に思ったことや感想等を記者あてに手紙に書いて伝え、記者から個々の子どもへの返事が無理であれば、紙面を通して返していくという方法がある。
ともあれ、子どもと記者の間に記事を通したコミュニケーションが成立してくれば、記者が教室に出向いて授業に参加するような場面をつくることも考えやすい。あるいは、インターネットを使って子どもと記者が交信するというようなことも将来は実現するに違いない。
子どもに人気のある記者が現れれば、NIE運動が飛躍的に進むことは確実である。イチローの活躍は、プロ野球ファンの足をより球場に向けさせ、オリックスのリーグ優勝は、地震の被害に遭った人たちの気持ちを明るくしてくれた。新聞界に“イチロー”が出現すればどういう結果を呼ぶかは自明の理である。心底そんなことを待ち望んでいる。