第38回 日本新聞教育文化財団「NIEニュース」第17号(1999年11月)発行
【1頁】
「新聞の効果的な活用を期待 新教育課程の実施に向けて」
文部省初等中等教育局長 御手洗 康氏
「NIE効果測定 調査結果まとまる」
日本新聞教育文化財団NIE委員会はこのほど、1998年度に新たにNIE実践校となった157校を対象に実施したNIE実践効果測定調査結果をまとめた。
それによると、NIEを実践している教師のうち、4人に3人が児童・生徒に「自ら調べる学習態度」が身についたと回答。あらためて、総合的な学習の時間にNIEが効果的であることを裏付けている(2~3面に詳細)
「NIEガイドブック 編集作業進む」
昨年に引き続きNIEガイドブック(日本新聞教育文化財団編)の編集作業が進んでいる。今回の発行は『中・高等学校 総合的な学習』『中学校・国語』『高等学校 国語表現』の3編。各編とも、NIEの実践経験豊富な教師陣が執筆、記事資料もふんだんに掲載する(4面に関連記事)。
年内に総合的な学習編を発行、他の2編は年度内に発行の予定。申し込み方法は、ホームページ等でお知らせします。
【2~3頁】
「主体的な学習能力が向上 NIE効果測定調査結果」
NIE効果測定調査は、1998年度に新たにNIE実践校となった157校を対象に行われ、126校から回答を得た。96年度実践校218校を対象とした調査に続いて2回目となる。
社会への関心が広がる
総合的な学習に有効
グラフ1 新聞を読む頻度
小・中・高校とも、「毎日読む」児童・生徒が増加し、逆に「ほとんど読まない」は減少している。
グラフ2 新聞を読む時間
「1時間以上」「30分~1時間未満」「15分~30分未満」を選択した児童・生徒が増え、「5分未満」の選択は減っている。小・中・高全体で、閲読時間が増えていることが分 かる。
グラフ3 NIEによる関心の変化
NIEの実践を受けてどのように関心を持つようになったか(複数回答)。「事件・事故など社会のこと」「環境や健康・福祉に関すること」などが、関心を集めている。
グラフ4 学習能力の向上(好きになったこと)
NIEの授業を経験して好きになったこと(複数回答)。多くの児童・生徒が「文章を読むこと」「自分で調べて詳しく知ること」を挙げている。「自ら学び考える」ことにつながると言えるだろう。
グラフ5 新聞活用して児童生徒にどのような変化が見られたか
教師から見た児童・生徒の学習変化について尋ねたところ、グラフ1~4の児童の回答を裏付ける結果となった。
【4頁】
「新聞を活用した取り組みで表彰 東京都台東区立台東中学校」
「NIE公開研究会を開催 岡山県立倉敷工業高等学校」
「NIEガイドブック『総合的な学習』編 年内発行へ」
【5頁】
「情報教育のための環境整備を マスコミ学会研究会を開催」
NIEの学問的蓄積を
水越伸東京大学社会情報研究所助教授は、技術主導のデジタル情報化の圧力の中で、ML(メディアリテラシー)を生徒が身につけることの重要性がますます高まっていることを指摘、市民レベルだけでなく、情報教育の場でもMLを展開する必要性を強調した。
また、現在のNIE活動には、「MLの構成要素の1つである『メディアの批判的受容能力』を養う教育が十分になされていない。NIEを充実させるために
は、NIEを育成していく研究者をつくり、学問的蓄積を積み上げていく必要がある」と問題を提起した。
「わくわくNIE第3号 各地で好評」
【6~7頁】
「株式学習ゲーム 全国300校が参加」
「人生のために読む 第3回NIE国際大会を開催」
WAN(世界新聞協会)は、9月5日から8日まで、第3回NIE国際大会をパリで開催した。
「ブックレビュー」
『高校新聞の戦後史』(白順社)
小川吉造・今井久仁編著
『総合的学習に生きる 広告の読み方・生かし方』(東洋館出版)
金子守著
各地の動きから
編集部デスク
【12頁】
「ニュースパークたより No.3」
各施設の開館時間、休館日、入場料が決まりました。
【11~10頁】
「資料画像の電子化すすむ 鴨居分室で1万7000点」
「シンボルマーク・ロゴタイプのデザインを募集しています」
「連載 日本の新聞人 3階・新聞人コーナーから」
上智大学名誉教授 春原昭彦氏
②池辺三山(いけべ さんざん)氏
本名は吉太郎。1964(元治元)年2月5日、熊本市に生れる。父吉十郎は、1877(明治10)年「西南の役」で薩摩軍に味方して捕らえられ処刑された。
翌1878(明治11)年から父の友人で肥後藩の儒者、国友古照軒の私塾で学んだ後、1881(明治14)年上京して、慶應義塾などに学ぶが、学費が続かず九州に帰る。1888(明治21)年、大阪で政論雑誌『経世評論』の編集長を務めるが、経営難から翌年東京に戻り、新聞『日本』に論説を寄稿し始めた。
1892(明治25)年に旧藩主の世子細川護成の補導役としてフランスへ行き、パリから鉄崑崙(てつこんろん)の筆名で『日本』に「巴里通信」を掲載したが、これが好評で、1895(明治28)年11月帰国すると、翌年『大阪朝日新聞』に主筆として招かれた。
三山が真価を発揮するのはこれ以後で、1898(明治31)年には『東京朝日』に転じ、藩閥主導の超然内閣を批判、日露問題では対外強硬論を主張した。その言論は各界から注目されただけでなく、文章、論旨、テーマの選択などで近代的社説の型を打ち出したことでも注目される。
また、二葉亭四迷を再評価して起用、夏目漱石の入社に力を貸して『朝日新聞』の権威を高めた。
1911(明治44)年9月に退社、翌年2月28日死去した。
【9~8頁】
「秘蔵資料3 看板」
「トピックス」
「フレンチカフェが誕生します 2階エントランス」
「今後の予定」