第43回 日本新聞教育文化財団「NIEニュース」第20号(2000年8月)発行
【1~5頁】
「21世紀に向けたNIE像を模索 第5回NIE全国大会を開催」
第5回NIE全国大会が7月27、28の両日、横浜市で開催され、46都道府県、523人(うち教育関係者423人)が参加した。今年は、NIE推進事業5か年計画の最終年にあたる。今大会は、これまでのNIE事業を振り返るとともに、総合的な学習の時間の本格的指導を控えて、教育関係者、新聞関係者が集い、21世紀に向けたNIE像を模索した。
「記念講演 仕事を通して見た現代」
脚本家 山田太一氏
「パネルディスカッション NIE活動はどう学校を変えていくか」
司会 影山清四郎氏 神奈川県NIE推進協議会会長、横浜国立大学教授
パネリスト
中野重人氏 日本体育大学教授
藤本裕子氏 トランタンネットワーク新聞社取締役社長
有馬進一氏 神奈川県藤沢市立長後中学校教諭
牧内良平氏 神奈川新聞社専務取締役総合統括
【6~9頁】
「分科会 小学校におけるNIE活動」
開かれた学校をめざして
茨城県つくば市立並木小学校 岡野昌信教諭
新聞情報でテレビ番組をつくる試み
東京都江東区立第二亀戸小学校 田中孝宏教諭
インタラクティブ・コミュニケーションを創り出すNIE
神奈川県横浜市立豊岡小学校 安藤壽子、山本多惠子、渡辺誠教諭
司会 神奈川県茅ケ崎市立茅ケ崎小学校 叶地千秋教諭
「分科会 中学校におけるNIE活動」
NIEを国語の授業に生かした実践
神奈川県藤沢市立片瀬中学校 枡田重則教諭
社会の動きに敏感になり、表現力を高めるNIE活動
岐阜県揖斐川町立北和中学校 幸田明彦教諭
ともに生きることを考える
大阪府貝塚市立第二中学校 坂本幸仁教諭
司会 神奈川県平塚市立神明中学校 石井明教諭
「分科会 高等学校におけるNIE活動」
ジエンダーフリーを目指して家族・家庭生活を学ぶ
お茶の水女子大学附属高等学校 田中京子教諭
記者派遣制度を活用したエイズ教育
神奈川県川崎市立川崎総合科学高等学校 川崎操教諭
生徒の情報活用能力の育成と自ら学び、考える力の向上をめざして
鹿児島県立阿久根高等学校 日高勝博教諭
司会 神奈川県立厚木南高等学校 梶ヶ谷穣教諭
「分科会 マルチメディアとメディアリテラシーとNIE」
「『横浜大空襲』や『青い目の人形』について調べて、平和の大切さを伝えよう」
神奈川県横浜市立本町小学校 八木松子教諭
「論理性と市民性をはぐくむカリキュラムの構成と実践―国語科と社会科の共同授業を通して」
大阪教育大学教育学部附属平野中学校 井寄芳春・野中拓夫教諭
「情報社会と学校教育の不易流行」
北海道札幌国際情報高校 高松剛教諭
司会 神奈川県立生田東高等学校 秋山誠教諭
「分科会 家庭・地域・学校とNIE」
「地域のつながりを深め、生き方を考えるNIE」
新潟県小千谷市立小千谷小学校 樋口健一教諭
「NIEの普及と発展を目指して」
佐賀県立浜玉町立浜玉中学校 光武正夫教諭
「家庭での対話と地域への提言」
神奈川県立初声高校 中根淳一教諭
司会 神奈川県横須賀市立鴨居小学校 臼井淑子教諭
「参加者のアンケートから(回答数104) NIEの今後」
【10頁】
「高校新聞の可能性めぐり討議 全国学校新聞指導者研修会」
昭和第一学園高等学校 松井孝二教諭
「ビックレビュー こころを育てる杉林がいいか雑木林がいいか なだいなだ著」
【11頁】
「2000年度NIE実践校 343校決定 今年度実践校の実践計画を見る」
日本新聞教育文化財団NIEコーディネーター 河村好市氏
「ネットでNIEの交流を」
NAA
「わくわくNIE第4号 今秋発行」
「全新研大会 横須賀で開催」
「NIE調査研究結果まとまる」
各地の動きから
編集デスクから
【16頁】
「シンボルマーク決定!」
10月12日に開館を控えたニュースパークのシンブルマークが、このほど決定しました。国内外から集まった4395点の応募の中から、数回の厳正な審査を通過し、最優秀賞に輝いたのは、神奈川県横浜市在住のグラフィックデザイナー、高橋満さん(64歳)の作品です。
作品は手書きのもので、新聞を広げる人を毛筆によるフリーハンドで表現、新聞が読者に与える「驚き」や「感動」が、鼻に相当する感嘆符「!」に込められています。新聞が本来持つ手作りのあたたかさも見事に表現されています。
【15~14頁】
「日本新聞博物館 会館記念特別展 号外で振り返る20世紀」
「主な展示内容」
通史展示
スポーツコーナー
号外のいろいろ
号外に載った20世紀の有名人
号外のできるまで
「連載 日本の新聞人 3階・新聞人コーナーから」
上智大学名誉教授 春原昭彦氏
⑤上野理一氏
1848(嘉永元)年10月3日、丹波篠山西町(兵庫県)に生まれた。家は代々両替商、質屋を営んでいたが、明治に入って家運が傾いたので、1872(明治5)年神戸に出て外国貿易を志した成功せず、1875(明治8)年に遠縁の細見貞の紹介で、大阪鎮台三好重臣司令官の執事となる。
1880(明治13)年4月三好中将の東京転任により辞職、兵庫県河辺郡の上席書記となった。当時『朝日新聞』は、資本主の木村平八と津田貞主幹の対立から経営が困難になっていた。そこで経営に参加していた細見貞の説得で、10月5日『朝日新聞』に入社、翌1881(明治14)年1月木村平八が『朝日新聞』の所有権すべてを村山龍平に譲渡すると、上野も経営に参画することになり、出資金総額のうち3分の2を村山、3分の1を上野に分担した。1908(明治41)年、大阪、東京両社を合併、合資組織としてからは、村山と1年交替で社長を務め、日本を代表する新聞に育て上げた。
両者の性格は剛と柔、村山が外を代表すれば上野は内をまとめるという具合で、とくに1918(大正7)年の「白虹筆禍事件」の時は、村山に代わって社長になった上野が収拾にあたり、『朝日』存亡の危機を乗り切ったといわれる。翌1919(大正8)年12月31日に死去。
「白虹筆禍事件」寺内内閣による言論弾圧を批判する記事の中の「白虹日を貫けり」の一句が政府を激怒させた、日本新聞紙上最大といわれる筆禍事件(編集部)
「最近の収集資料」
【13~12頁】
「展示フロア紹介」
現代ゾーン②
取材・編集部門
広告部門
製作部門
「併設施設」
新聞ライブラリー
NIE全国センター
「『編集シアター』収録終了」
「今後の予定」
「ニュースパークへの案内図」